2006年の甲子園を振り返って


2007年3月11日(日)
昨年(2006年)の甲子園を振り返って

春の選抜では横浜高校が優勝し、夏の選手権では早稲田実業が優勝した。横浜青葉リーグのOBが大活躍した年であった。

1.高校球児たちの憧れの聖地「甲子園球場」

甲子園球場

甲子園球場が完成したのは大正13年8月1日(1924年)。80年以上の歴史を刻み全国4,112校の高校球児たちの憧れの「聖地」として数々の伝説を生み出した。 又、そのプレーを通じて国民に勇気と希望と感動を与えてきた。

1975年(昭和50年)春の甲子園では蔦文也監督(故)率いる池田高校(徳島・公立)が一躍全国にその名を知られることとなる。 その時の部員数は、わずか11人。 強豪の報徳学園に敗れ準優勝に終わったが、全員一丸となってプレーする姿は「さわやかイレブン」と呼ばれ、 甲子園に旋風を巻き起こした。 その後、全国制覇3回(1982年(昭和57年)夏、1983年(昭和58年)春、1986年(昭和61年)春)。

1992年(平成4年)夏の甲子園では松井秀樹選手(石川・星稜高、現ニューヨークークヤンキーズ)が明徳義塾戦で5打席連続敬遠されて話題となった。

1998年(平成10年)夏の甲子園では松坂大輔選手(神奈川・横浜高、現ボストン・レッドソックス)が準々決勝で大阪・PL学園高を相手に延長17回、250球の力投で完投勝利を収めた。 2日後の決勝ではノーヒットノーランという快挙を成し遂げ、4日間で535球を投げ平成の怪物と一躍有名になった。 この年、横浜高校は春夏連覇を成し遂げる。

甲子園のシンボルは球場を覆う「ツタ」、内野の「黒土」、外野の「天然芝」である。 その甲子園球場も老朽化が進み今年のシーズンオフから3年掛けて改修工事が進められる予定である(今までの魅力であるシンボルをそのまま残して)。

2.2006年の甲子園

第78回選抜高校野球大会は横浜高校が8年ぶり3度目の優勝をした。 印象的だったのは福田選手の嬉し涙であった。主将になってチームをまとめることに苦心した思いが優勝直前で感無量となったのである。 OBでは4番主将捕手 福田永将選手、5番副主将中堅 下水流昴選手が横浜青葉リーグのOBである。

第88回高校野球選手権大会は早稲田実業が悲願の初優勝(創部102年目)を成し遂げた。 印象的だったのは、決勝戦で延長15回(1-1)再試合(37年ぶり2度目の決勝再試合)。 斎藤佑樹投手(早稲田実業)と田中将大投手(駒大苫小牧)との投手戦が全国の野球ファンを魅了した。 見せ場は最後のバッターが田中将大選手で、勝負球の直球をフルスイングしたこと。 青いハンカチで汗を拭くイメージから「ハンカチ王子」と命名された斎藤祐樹投手。 OBでは1番中堅 川西啓介選手が横浜青葉リーグのOBである。

又、優勝はしなかったが東海大相模は2年連続甲子園出場を果たした。5番左翼 小玉雄介選手が横浜青葉リーグのOBである。



第78回選抜優勝 横浜高校の記念写真
第78回選抜優勝 横浜高校の記念写真 2006/4/4 *1
第88回選手権優勝 早稲田実業の行進
第88回選手権優勝 早稲田実業の行進 2006/8/21 *2
第78回選抜優勝 横浜高校の喜び
第78回選抜優勝 横浜高校の喜び 2006/4/4 *2
第88回選手権優勝 早稲田実業の喜び
第88回選手権優勝 早稲田実業のの喜び 2006/8/21 *2
東海大相模の応援
東海大相模の応援
東海大相模 小玉雄介選手
東海大相模 小玉雄介選手
横浜高校 福田永将選手
横浜高校 福田永将選手 2006/12/9シニア卒団式で
横浜高校 下水流昴選手
横浜高校 下水流昴選手 2006/12/9シニア卒団式で
東海大相模 小玉雄介選手
東海大相模 小玉雄介選手 2006/12/9シニア卒団式で
早稲田実業 川西啓介選手
早稲田実業 川西啓介選手

3.偉大なる指導者

野球をするのは選手であり、努力して栄光を勝ち取るのも選手である。その選手を良く知り能力を伸ばすことが指導者の役目である。
横浜青葉リトルの菊池俊夫監督、横浜青葉シニアの鈴木茂監督、横浜高校の渡辺元智監督、東海大相模の門馬敬治監督、早稲田実業の和泉実監督 、こう言ったすばらしい監督達が中学生、高校生の選手達の能力を伸ばすのに貢献している。 日本を代表する指導者に巡り会えたのは決して偶然ではない。

第78回全国選抜高校野球大会の状況(当サイト内)
第88回全国高校野球大会の状況(当サイト内)

*1 MSN毎日インタラクティブより引用
*2 asahi.com高校野球より引用

文責:上邨